プロテスタントとカトリック、二つの宗派が相争い、未だ南北の統一の成されない島、アイルランド。その首都ダブリンにあるMount Temple Schoolに通っていた4人の少年、ボノ(ポール・ヒューソン、Vo)、ジ・エッジ(デイヴ・エヴァンス、G)、アダム・クレイトン(B)、ラリー・マレン・ジュニア(Dr)によって結成されたバンド、それがU2である。バンド名はアダムが提案した。U2偵察機からとった名前で、「You too」と掛けているという。
 当初はまともに演奏できたのはラリーくらいのものであったという話だが、経験を重ねメンバーそれぞれが腕を上げていくと、その圧倒的なパフォーマンスで人気を得るようになった。その勢いで1979年にCBSアイルランドと契約、プロとしてデビューを果たす。
 プロとして初のEP(4曲入りレコード)『U2:3』がチャート1位になるなど、アイルランドでの人気はデビュー当時から高かったが、他国にはその評判は伝わらず、初のイギリス・ツアーでは観客9人という会場があるなど、惨憺たる結果に終わっている(イギリスの音楽誌に「V2」と謝って紹介されたのもこのときである)。それでも地道な活動が実を結び、1stアルバム『BOY』(1980年)は全英52位、2ndアルバム『OCTOBER』(1981年)は全英11位と売り上げを伸ばした。ただ『OCTOBER』は全米では104位に終わっており、まだまだ世界的な認知度は高いとはいえなかった。

 U2の名を一躍世界に知らしめたのが、3rdアルバム『WAR』、そしてその1曲目『Sunday Bloody Sunday』である。力強いドラムで幕を開けるこの曲は、アイルランドで起きたテロ事件、「血の日曜日事件」を題材にしており、ボノはテロリズムへの強い反対を訴えている。かのテロ組織IRAが存在するアイルランドでその運動への反対を表明したことは大きな話題になり、『WAR』は全英1位、全米11位の大ヒットとなった。もちろんWARのヒットの理由は『Sunday Bloody Sunday』だけにあるわけではなく、シングルとしてヒットした『New Years Day』を始め他の曲も充実していた。
 だが、彼らはこの頃自分たちの音楽の路線に疑問を持ち始めていた。この『WAR』までのU2の音楽はハード・ロックに近いものだが、それがあまり魅力とは思えなくなってきたのである。特にボノはその想いが激しく、ライブの途中で他のメンバーと口論するなど荒れた。結局、彼らは成功を収めたハード・ロック路線を止め、新たな音楽性を模索することを決める。後に『世界一変化の激しいバンド』といわれる彼らだが、その第一歩をこのとき踏み出した。

 

 まず彼らはプロデューサーとして、ブライアン・イーノ(写真)を迎えることにした。イーノは実験的な音楽の制作で名を挙げた人物で、デヴィッド・ボウイ、トーキング・ヘッズ、ディーボなどのプロデュースを手がけ評判が高かった。だがイーノはこの時期ロックに失望しかかっており、U2の誘いには乗り気ではなかったなかったという。結局U2の熱意におされ、ダニエル・ラノワ(当時イーノのもとで働いていた)との共同プロデュースという形でU2の新作アルバムの制作に加わった。そのラノワとともにイーノは、のちのちまでもU2と切っても切れない存在となっていく。
 イーノはU2のサウンドに透明感あふれるシンセサイザーを加え、ラノワはシャープなサウンドを彼らに提供した。こうして作られた4thアルバム『The Unforgettable Fire』は”80年代版プログレッシブ・ロック”とでも言うべき作品に仕上がっており、彼らはハード・ロック・バンドというイメージを覆することに成功した。このアルバムからは『Pride(In The Name Of Love)』がヒットしたが、この曲は黒人開放運動家マーティン・ルーサー・キング牧師に捧げられている。またアルバム内にはエルビス・プレスリーに捧げた『Elvis Presly And America』という曲も収められていて、U2がアメリカに強い興味を持ち始めたことがわかる。

 1986年発売された5thアルバム『The Josua Tree』は、全英・全米1位、全世界での売り上げ1500万枚という大ヒットを記録する。このアルバムは基本的には前作の路線を継承しており、その集大成ともいえる名曲『With Or Without You』がシングルとしても大ヒットしている。また、アメリカの音楽からの強い影響も認められ、同じくシングルとしてヒットした『I Still Haven't Found What I'm Looking For』はゴスペル風の曲となっている(のちにU2は実際ゴスペル合唱団とこの曲を一緒に歌っている)。また『Bullet The Blue Sky』ではジミ・ヘンドリックスの領域に挑戦しているし、『Runniig To Stand Still』はスライド・ギターがどこかアメリカ風の匂いを感じさせる名バラードである。彼らはこののちさらにアメリカに接近したアルバム『Rattle And Hum』を発表し、こちらも1000万枚のヒットをあげた。

 

 1991年、U2はそれまでのイメージを完全に覆すアルバム、『Achtung Baby』を発表する。ケバケバしい音色のシンセとギター、機械的なドラム、それに官能的なボーカル。オーソドックスなロック・バンドであったはずの彼らが、突如サイバー・バンドへと変身したのである。
 絶頂期での突然の変貌だけに、ファンの戸惑いも大きく、このアルバム以降のU2は聞かない、という人も多くいる。だが同時に新たなファンを獲得することにも成功し、結局1000万枚のヒットとなった。
 この『Achtung Baby』発売を機に、彼らは『ZOO TV TOUR』というワールド・ツアーを行う。92年から94年まで、じつに2年にも及んだこの長いツアーは、莫大な資金を投入した驚異のエンターテイメント・ショーであった。二つの巨大モニターを始めとしておびただしい数のモニターが配置され、音楽に合わせさまざまな映像を映し出す。
 だが単にテクノロジーの粋を集めただけではなく、照明に公害車として悪名高いトラバントを使用しているところに象徴的に表されているように、このショーはじつはテクノロジーを皮肉っている側面がある。テクノロジーを大量に使用することで、その無意味さ、虚しさを逆に見せつけているのであり、これこそがU2の突然の変貌の意味なのだ、と悟らされる。サイバー路線は8thアルバム『Zooropa』、9thアルバム『POP』まで続き、ツアーでは『ZOO TV TOUR』よりもさらに大規模かつ豪華な『POP MART TOUR』(97~98年)を行い(写真)、世間を圧倒した。

 2000年、U2は3作続いたサイバー路線に区切りをつけ、オーソドックスなロックを志向する新作『All That You Can't Behind』を発表。また新たな地平を切り拓いた。先行シングル『Beautiful Day』がグラミー3冠に輝くなど、評判も上々。つねに変化し続け、成功を収める彼らは、世界最高のロック・バンドと言うに相応しいだろう。今日も彼らは、前進し続けているのだ。